トルコ語翻訳家のイスタンブル暮らし
トルコ・イスタンブール生活22年目、反抗期真っ盛り上の娘、生まれてからずっと反抗期の下の娘をかかえる働く母の日々の出来事や感じたことを綴ります。
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トルコ生活22年目の二人子持ちの翻訳家・通訳の日常生活と旅行の記録です。トルコ民家研究がライフワークです。



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イスタンブル建築散歩ーオスマンル銀行ミュージアムー
カラキョイに通称銀行大通りーBankalar Caddesiーというのがあります。ビザンス時代にはジェノヴァ人の地区でしたが、後にユダヤ人が多く住む地区になりました。
本当はスラブ語で地主とか首領みたいな意味を持つヴォイヴォダ大通りーVoyvoda Caddesi-というのですが、もっぱらこの名前で通っています。

かつてはイスタンブル金融の、しいてはトルコ金融の中心地でした。

こんな風に重厚な石造の西洋風建築が並んでいます。トルコのウォールストリートといった趣です。
19世紀に西洋列強が次々と金融関係の建物を建てました。いろいろな様式が混ざっています。

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これがオスマンル銀行ですが、現在はガランティ銀行と中央銀行イスタンブル支店が入っています。
入り口がふたつあって、シンメトリーなツインになった建物です。
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下の部分は切り出しの石材を荒く加工したルスティカという、ルネッサンス時代のイタリアで流行した様式です。

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上部はコリント様式の半円柱にバロック風の破風がありますが、全体的にはネオ・ルネッサンス様式でしょうか。国旗が掲げられてるのは、中央銀行の方です。

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こちらが銀行の入り口です。何重にもなった木の扉でいかつい感じです。

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入り口はさらに奥まっています。格式の高い格天井が印象的です。

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これはガラタ橋を渡った金角湾の対岸、エミノニュの方から見たところです。ガラタ橋の左下の白い大きな建物がオスマンル銀行です。表側とはうってかわってシンプルなつくりですが、三つ並んだ丸い窓が印象的です。

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こちらはミュージアムの部分です。オスマン朝時代に使われていた金庫の扉。

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当時銀行で働いていたモダン・ガールたちです。非ムスリムがほとんどでした。

 クリミア戦争で借金をしたので深刻な財政難に陥ったオスマン朝政府にイギリス人たちがこのオスマンル銀行をイギリスの民間銀行として設立しました。スルタン・アブドゥルアズィズ時代の1863年、インフレにあえぐオスマン政府は、フランスなど他の国の資本を加えて帝国の国立銀行としました。ということで、帝国の財布のヒモまで西洋列強が握ってしまったのです。

 さらには露土戦争で賠償金を払わねばならなくなり、政府は借金返済を凍結して破産を宣言します。

 西洋諸国はオスマン政府に借金を返済させるために、帝国のタバコや塩、アルコールなどからの利益を回収するオスマン債務管理局をつくりました。この建物は現在イスタンブル男子校になっていて魅力的な建物です)そしてオスマン銀行はオーストリアやドイツ銀行とタバコの管理会社を設立しします。

 そうして1891年にタバコ管理会社はオスマン銀行の新社屋とツインで建てられました。建築家はお雇い外国人のアレクサンドル・ヴァロリーである。イスタンブル考古学博物館やペラ・パラスの建築家として知られる、フランス系オスマン朝臣民でした。パリで建築を学んできていたので、世紀末に政府に非常に重宝がられました。

 オスマンル銀行は1931年に共和国中央銀行が設立されるまで国の公的機能を果たし、以降は民間の銀行として存続しましたが、2001年にガランティ銀行に吸収合併され、145年の歴史に終止符を打ちました。

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今はガランティ銀行のカラキョイ支店として営業を続けています。

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上の階から。こんな仕事場で働いてみたいですね。


osmanlı+bk10_convert_20130111010840
中央が吹き抜けになっています。
すっきりとした「抜け感」は、考古学博物館とも共通するヴァロリーの特徴です。
整然とした様式美です。

osmanlıbk11_convert_20130111011327
最上階の窓からは、スレイマニエが見えます。

カラキョイ地区には実は見所がたくさんです。丸一日あっても足りません。


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イスタンブル建築散歩・ドルマバフチェ宮殿2、建築家バルヤンと内部

今回は内部の紹介をします。

まず宮殿の建築家、バルヤン一族のことを説明したいと思います。

Krikor Balyan(1764-1831) カイセリ出身のアルメニア人、バリ親方の息子。
18世紀末宮廷建築長に。

Senekerim Balyan(1768-1833)クリコルの弟。

Garabet Amira Balyan(1800-1866)クリコルの息子。
息子のニゴオスと共にドルマバフチェ宮殿を手がけた。

Nigoğos Balyan(1826-1858)ガラベットの息子。 ドルマバフチェ宮殿他、
チュラーン宮殿、ウフラムル・カスル、 オルタキョイ・ジャーミーなど、
今もイスタンブルっ子に親しまれている作品多数。

Sarkis Balyan(1835-1899) ガラベットの息子。
ドルマバフチェ・ジャーミーやゆユルドゥズ公園の中のキョシュク、
トプカプ宮殿内の今はコンヤク・レストランになっている
メジディエ・キョシュクなど、今も彼の作品は数多く残っている。

Hagop Balyan(1838-1875) ガラベットの息子。

Simon Balyan(1846-1894) ガラベットの息子。
マチカのイスタンブル工科大学校舎など。

と、こうしてみていきますと、今現在イスタンブルの観光施設になっていたり、
宮殿庁が博物館にしているところが多いのがわかります。

18世紀末以降、西洋化、しいては近代化の必要性を感じ始めたオスマン朝が、急ピッチで西洋建築を建設するのにバルヤン一族がかなり貢献していたわけです。彼らはセリム3世以降5代のスルタンに仕え、100年近くオスマン朝の
建築界に君臨しました。

18世紀末、西洋化をするにあたってまずは軍事改革が行われました。
そこで従来のオスマン朝にはなかった兵舎が次々に建てられました。
今までなかった機能を持つ建物ですから、西洋のものが手本とされ、
西洋建築に長けた非ムスリムのアルメニア人建築家、
クリコル・バルヤンが重宝がられました。
krikor

こういった非ムスリム、キリスト教徒たちはパリなどに留学しましたが、
バルヤン一族が留学していたかどうかを示す確固とした証拠はありません。
しかしこれだけの西洋建築の手法を使っているからには、
本格的な教育を受けたことがあると思われます。

アジア側ハイダルパシャ駅近くに建つ端正な塔をもつセリミエ兵舎は、
セリム3世の命でクリコルが建てた者です。
クリミア戦争時にはナイチンゲールがここで従軍看護婦として
働いていたこともあります。

軍事施設の次には宗教施設や行政施設も次々と西洋風の建物になっていき、
イスタンブルの新市街側へ都市の中心が移ってきました。

ドルマバフチェ宮殿もこういった流れの中で建てられました。
クリコルの息子、ガラベットとニゴオスの共同作品です。

さて内部ですが、行政が行われていたセラムルックの部分最大の広間が
この「帝位の間・Muayede salonu」です。

muayede salonu

大ドームの天井。ロココ調の凝ったトロンプイユ。
ドームはジャーミーを彷彿とさせますが、
オスマン朝のジャーミーほどは高みがなく、ややつぶれたドームです。
muayede tavan

ドーム下の柱の柱頭部分。変形コリント式のギリシャ風装飾です。
dolmabahçe muayede salonu 2

ドーム中央からは宮殿一の大きさを誇るイギリス製の4.5トンの
シャンデリアが吊るされています。
dolmabahçe muayede salonu3

これはわれながらうまく撮れてます~
dolmabahçe avize

1856年、クリミア戦争の終結した年にこの大広間で
盛大なオープニングパーティーが行われたそうです。
オスマン朝はクリミア戦争でイギリス、フランスからなる
協商国側に入っていましたので戦勝国になりましたが、
この戦争のために借金をして財政は火の車でした。
そんな中でこのように豪華絢爛な宮殿を建てましたので、ますます赤字に。
世紀末には「瀕死の病人」呼ばわりされるほど
国力が弱まる原因にもなりました。

クリスタル階段の手すり。
merdiven2

日本のものと思われるものはひとつもないのに、
なぜか「Japon Salonu日本の間」と言われている部屋。
家具はどう見ても中国っぽい。
dolmabahçe japon salonu

ある部屋の天井。
丸くせりあがっているのは伝統的なトルコ民家にも見られる形態。
テント時代の名残りかも。ロココ長の装飾とマッチしています。
dolmabahçe oda1

こちらはスルタン専用のハマム。
アラバスター石をふんだんにつかった、バロック調の曲線を描く
モチーフでまとめられています。
窓からはボスフォラス海峡がバーンと開けています。
天井もガラスと鉄を使った当時流行のデザイン。
hunkar hamamı1

天井もこんなに凝っています。
普通ハマムの天井はこんな風に自然光が入る穴が開いています。
hunkar hamamı2

これはセラムルックから大奥「ハレムリッキ」へ続く渡り廊下からの眺めです。
美しいフォームのガラス窓から、海側の門とボスフォラス海峡が眺められます。
dolmabahçe camdan


こちらはハレムリッキの広間です。 スタンド式のシャンデリアが美しい。
dolmabahçe haremlik büyük salon

ハレムのハマムです。(早口言葉みたいですね)
こちらはセラムルックのものに比べて質素。壁はタイルですが、
バロック調の装飾は健在。
dolmabahçe haremlik hamamı

天井はこのように幾何学模様になっており、
自然光が入り込むとまるでコンテンポラリーアアートのように
モダンな空間を創り出します。
dolmabahçe haremlik hamamı tavan

最後に時計塔のたもとの海辺にオープンしたカフェで一休みもGOODです。
宮殿に入らなくてもカフェだけ利用でできます。
カフェはふたつあって、ドルマバフチェ・ジャーミーのほうにもありますが、
宮殿のX線検査入口の中のカフェのほうがメニューも豊富で落ち着けます。
dolmabahce cafe


書き出すときりがありません。写真のUPに非常に時間がかかってしまいました。みなさん楽しんでいただけたらうれしいです。
ぜひ宮殿訪問のご参考にしてください。

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イスタンブル建築散歩・アタの命日にちなんで~ドルマバフチェ宮殿1
 アタテュルクの命日、11月10日にはアタが息を引き取ったドルマバフチェ宮殿に大勢の人が訪れます。学校単位で訪問したりもするので、当日は入り口から長蛇の列です。

 こちらは宮殿の陸側の門・「スルタンの門・Saltanat Kapisi」ですが、現在は閉じたままです。

 ごらんの通り、バロックやロココ様式っぽい(というか、バロックとロココのはっきりした線引きがわかりませんが)華美な装飾ですが、この宮殿全体は西洋の様々な様式がミックスされた、19世紀中庸当時流行の「折衷様式」で建てられています。

「ドルマ」というのはつめる、埋める、「バフチェ」は庭と言う意味で、海岸を埋め立てた場所に建てられたことから名づけられました。基礎部分には樫の木でできた杭が無数に打ち付けられているそうです。

dolmabahçe kapı


 1956年、クリミア戦争が終結した年に竣工したこの宮殿の建築家は、オスマン帝国臣民であったアルメニア人のバルヤン一族です。

 帝国の都市部に住んでいたアルメニア人やギリシャ人は、いち早くフランスなどに留学して西洋建築を学んできていました。そんなキリスト教徒臣民たちのうちの一族がバルヤンたちだったのです。彼らについてはまた別のときに詳しく説明します。

 とにかくクリミア戦争でイギリスなどの列強に借金をしたのに、スルタン・アブドゥルメジッドはこんな豪華な宮殿を建てたんですよ。


Map copyright PlanetWare.com

 これが宮殿の平面図です。(Planetware.com)大広間を中心として、ボスフォラス海峡沿いにほぼ左右対象の横長プランを持っています。

 実はこれはトルコ人にとって画期的なプランだったのです。

 これ以前にもこのような西洋式の宮殿が建てられていましたが、スルタンの居城と政治を行う公的機関としての宮殿がこのような西洋式の建造物になったのは、1839年に始まったタンズィマート(近代化改革)に端を発します。

topkapı plan

 これはトプカプ宮殿の平面図(Wikipedia)ですが、ご覧のように敷地内に様々な機能を持つ建物が点在しています。このため、いろいろな用を足すには雨でも風でもいちいち外へ出なければなりませんでした。

 こういった形式はトルコ人が遊牧民だった頃の名残と思われます。

ですから、行政機関がトプカプ宮殿から、すべての部屋が一つ屋根のもとに集結する西洋式の建物に移転したのは、国家としては大きな決意だったわけです。

dolmabahçe asker


スルタンの門の前にはいつもビシッと容姿端麗な兵士が建っています。

dolmabahçe bahçeden

 行政が行われていた「セラムルック・Selamlık」の庭からの眺めです。セラムルックというのはもともと男性だけが出入りする場所と言う意味で、普通の民家にもありました。

 池の装飾はちょっとルードヴィッヒの建てた城にあるような感じで装飾過多です。ルードヴィッヒのもののほうが時代は後ですが。


dolmabahçe cephe

 バロック、ロココなどの装飾過多な庭からやってきますと、セラムルックの正面に来ます。こちらはややすっきりでギリシャ神殿風の破風を持つ、ルネッサンス様式のような、新古典主義のようなつくりです。

 ここで内部に入りたいところですが、今日はアタの命日にちなんで書いているので、アタの亡くなった部屋に行きます。

 それはこのセラムルックではなくて、「ハレムリッキ・Haremlik」にあります。

 ハレムリッキというのは皆さんよくご存知の「ハレム」日本で言うところの大奥がある建物です。スルタンも政治以外の私的な生活はこちらで営んでいました。


dolmabahçe ata yatak

この写真は数年前に11月10日に行ったときのものです。アタが亡くなったベッドには花輪が置かれています。国旗は命日以外でもかかっています。

dolmabahçe ata çiçek

ベッドの横には訪問者が置いていった花がこんなに!泣いている人もいるんですよ。観光客はここでまた新たに宮殿の時計はすべてアタが息を引き取った9時5分で止まっているのを確認してうなずきます。

ata cenaze1

私が行ったときにはアタの葬列の写真展をやっていました。他にもたくさんあるのですが、とにかくすごい人です。

ata cenaze2

このように女子学生たちが号泣しています。死後75年経ってもまだ涙を流す人がいるのですから、当時はもっとひどく悲しんだことでしょう。

さて、また長くなってしまいました~建物の内部についてはまた次回でどうぞ~

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