トルコ語翻訳家のイスタンブル暮らし
トルコ・イスタンブール生活22年目、反抗期真っ盛り上の娘、生まれてからずっと反抗期の下の娘をかかえる働く母の日々の出来事や感じたことを綴ります。
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トルコ生活22年目の二人子持ちの翻訳家・通訳の日常生活と旅行の記録です。トルコ民家研究がライフワークです。



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裏シシリ案内
ワタクシのホームタウン、ŞİŞLİシシリですが、
最近はCHPの区長勢力争いで話題になってますね。
現区長のハイリさんは非常に紳士的な方なので、
狂言なんかしないと思いますよ。

それはさておいて、
シシリはガイドブックなどでは
あまりスポットが当てられない地区ですが、
半日空いた時間に歴史的な場所をプラプラしてみました。

朝友人との待ち合わせは、
うちから徒歩5分、Osmanbey駅近くのİTİMAT。
şişli1

イスタンブルに支店がたくさんある乳製品店ですが、
このErgenekon通り店は、喫茶コーナーや
世界のチーズコーナーも設けられていて、
他店とは一線を画した、ちと高級げな店構えです。
ワンプレートの朝食⒓TL。チャイは別なのが残念!
şişli2

さてここから奥のBomontiの方へ向かいます。
Abide-I Hürriyet大通りには両脇にフランス人墓地、
プロテスタント墓地が並んでいます。
このあたりはオスマン朝末期からLevantenと呼ばれる
オスマン帝国に住み着いた西洋人の居住区でした。
şişli3

通りをさらに進むと左手にはフランス・ラサール系私立学校
Saint Michel Lisesiが見えてきます。
1886年創立のこの学校には幼稚部から高校まであります。
理数系の科目はフランス語で授業をするという学校です。
şişli4

その先のもとシシリ警察署があった場所の隣には、
トルコ軍強化財団が入っているクラシカルな建物が。
もとはアルメニア人のAvedis Ohanyan Çakırという人の
持ち物でしたが、トルコ軍に寄付されたものです。
şişli5

Ohanyan氏は、タキシムのイスティクラル通りにあった、
Markisというアールヌーヴォー調のカフェのオーナーでした。
ミュシャ風の絵画が描かれたタイルが壁一面にある、
あのカフェです。
今は激安食堂になってますけど、内装は健在ですよ。

この建物の隣には現在自閉症の子供たちが通う特別学校があり、
それもなかなか素敵な歴史的建造物です。
元は何だったのかわかりませんが、
多分Levantenの物だったのでしょう。

ここからさらに奥の方へ進みますと、
エフェス・ビールの「Bomonti」というブランドの名前にもなっている
ボモンティのビール工場に行きつきます。
とんがり屋根があのドラキュラのブラショフ城みたいですね。
建築家は不明。
şişli6

ビールは19世紀前半にオスマン朝に入ってきたと言われ、
その後1902年にスイス人のボモンティ兄弟が生産を開始したのが、
この建物でした。今ではこの地区の呼び名になっています。
テキスタイルの会社や工場が並ぶ地区でしたが、
最近は高級集合住宅やレジデンス、
ヒルトンホテルもできて、再開発が進んでいます。
このビール工場は現在使われておらず、
廃墟になていますがとりあえず管理はされていて、
博物館とか文化センターになるなると言われながら
何年も経っています。Doğuşグループがレストランにするとかいう話も。
ちなみにこの通りの名前は「Birahane sokak」ビヤホール通りとなっています。

2本上の通りに戻りますと、
角に昔うちの上の娘が通っていたお安い私立学校、
今はあのチェーン学校Doğa Kolejiになっている建物が。
そこを左に折れて進みますと、
グルジア・カトリック教会が見えてきます。
şişli13

1868年に建てられたこの教会は、
1828年の露土戦争でオスマン朝が敗北した結果、
オスマン領からロシア領になってしまった
グルジア南部にあるメスヘティという
地域に多くいたカトリック教徒たちが、
ロシア正教の勢力に追われて、
ムスリムと一緒にイスタンブルへ逃げて来、
30年ほどの月日を経て組織化した
グルジア・カトリック教徒が建てたものだということです。
şişli8

うちの娘が通っていた頃のこの隣の学校のオーナーは、
Simon Zazadzeというグルジア系トルコ人でした。
この人がこの教会の修復にかなり携わっていたようです。
多分現在学校に使われている建物は、
教会付きの宿舎だったものではないでしょうか。

さて、テキスタイル工場街を抜けて谷底のような地形を渡り、
再び上へ登っていくと、シシリ区の新しい文化センターに
着きます。

左に行けば私の行きつけの病院、
オスマン時代ブルガリア病院だった
Türkiye Hastanesiです。

右側へ折れて工業高校をぐるりと回り、高架下をくぐって
Çağrayan方面へ進むと、
現代版コロッセウムのような新裁判所が見えてきます。
その隣にあるのが、Hürriyet Meydanı ヒュッリイェット・メイダヌ
「自由の広場」です。
şişli14

囲われていますけど、裁判所のほうから中へ入れます。
ここには1909年のルーミー歴の3月31日に、
当時の第二次立憲政治に対する反革命クーデターが起こり、
その際に殉死したマフムット・シェブケット・パシャや
その他の殉死者が葬られています。

şişli15

20リラ札の裏に登場している建築家、
ケマレッディン・ベイの設計による霊廟です。
オリエンタリズムと、20世紀初頭のトルコ人建築家の間で
流行した、「国民建築」様式の特徴である
重厚な明快さが組み合わさったデザインです。

ここには、ワタクシがなぜか気になっている
エンヴェル・パシャのお墓も。
şişli16

オスマン朝末期に立憲政治を担い、
その後第一次世界大戦参戦へ帝国を引きずり込んだ
統一党の御三家、エンヴェル、タラット、ジェマルのうち、
エンヴェル・パシャとタラット・パシャの墓があります。
それから、第一次立憲政治で首相を務め、
「ミトハト憲法」を起草し、
現在の農業銀行の前身であるオスマン朝初の農協を
つくった賢人パシャの、ミトハト・パシャのお墓もあります。

このモニュメント、「自由の碑」abide-i Hürriyetは
シシリのメイン通りの名前にもなっているし、
シシリ区のマークにもデザインされています。

さて、ここからMecidiyeköyの方向へ向かい、
シシリの実に罰発着所の手前を曲がると、
アルメニア人墓地へ着きます。
この門構え、見たことがありますよね?
şişli17

前にも入ったことがありますけど、
今回も門が開いていてラッキー。
この墓地には、著名なアルメニア人も多く眠っています。
オスマン末期から共和国初期にかけて、
トルコの近代化に貢献した文化人には、
アルメニア人もたくさんいるんですよ。

たとえば、
Yervant Oskanはイスタンブル考古学博物館の
初代館長オスマン・ハムディ・ベイと、
オスマン朝初の考古学発掘をした人です。
共和国建国後、トルコ語の体系化に貢献して、
アタテュルクから「Dilaçar-言語を開く?」
という姓を賜った、Agop Martyan Dilaçar など。
最近の著名人では、
大御所歌手のセゼン・アクスの恋人で、
彼女や数多くのミュージシャンに名曲を提供した
作曲家のOnno Tunçのお墓もありました。

あ~やっぱり1回では長すぎますね。
次に続く。 


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